仏説無量寿経

浄土三部経の一つで、上下二巻に別れており、「大無量寿経」「大経」とも言う。

上巻には阿弥陀如来成仏の因果、下巻には衆生が極楽浄土に往生する因果が説かれている。阿弥陀如来の四十八願は、上巻「弥陀成仏の因」に説かれている。

浄土真宗では、この経を釈尊出世本懐の経とする。

詳細

漢語訳は十二あったと伝えられ、うち七つが失われたことから、五存七欠と言われる。仏説無量寿経は五存のうちの一つで、魏の康僧鎧が訳したことから、「魏訳」と呼ばれる。他の四訳は、「平等覚経」(漢訳)、「大阿弥陀経」(呉訳)、「如来会」(唐訳)、「荘厳経」(宋訳)である。

この経を説くにあたり、釈尊は普段とは異なる姿で阿難尊者はじめ弟子たちを驚かせ、「如来がこの世に出る(出世)のは、仏道の教えを広く説き述べて多くの衆生を救い、真実の利を恵むためだ」と述べられて後、阿弥陀如来と極楽浄土について説かれた。

親鸞聖人は「教行信証」の「教巻」の始めに「それ真実の教を顕わさば、すなはち大無量寿経これなり」と書かれ、また「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(釈尊の出世はただ阿弥陀如来の海のような本願を説くためであった)」とうたわれている。

考察

如来の出世本懐が、迷える衆生を救うことであることは、疑いようもないことである。

釈尊は、様々な段階にある多くの弟子たちを救うために、多くのお経をお説きになった。その中に無駄なものは何一つ無く、優劣のつけられるものではないが、「仏になるための教え」(頓教)と、「仏になるための教えを聞くことができるようになるための教え」(漸教)がある。親鸞聖人は前者を「真実」、後者を「方便」と言い表されている。

間違えてはならないのは、方便とは釈尊の善巧方便(衆生を救うための巧妙で尊い手だて)であるということだ。決して「嘘も方便」という後世に使われ始めた間違った言葉と混同してはならない。

頓教に自力の教えと他力の教えがある中で、親鸞聖人は、自分は自力では救われないとみつめられた。自らの非力を認めることのできる力こそ本当の力であろう。そしてそれは、自力に執着して救われず苦しみの中にいた親鸞聖人が、阿弥陀如来の光に出遇って賜った如来の本願力である。

「出世本懐」という言葉を使って、他の尊いお経や、それを拠り所とする宗派を見下すことは大変愚かである。

如来の出世本懐は、私たちが仏となって救われることである。大乗を知り尽くした尊い菩薩に向かって説かれた経も、低下の凡夫に向かって説かれた経も、その機に対する釈尊の出世本懐の経である。

自らが凡夫と知る者が集うのが浄土真宗であり、浄土真宗にとっての出世本懐は大無量寿経以外にはありえない。

生駄 真

2012/10/25 掲載