縁起
口伝
法真寺は第二次世界大戦末期の福山大空襲で全焼していますので、古いものはあまり残っていません。次のような口伝があります。
山手時代
室町時代、福山市山手町に開かれたと伝えられています。
山手町のどこにあったかについては、「桜」説、「池田」説の二説があります。桜説の根拠は、そこから民家のものではない大きな瓦が出土したことで、池田説の根拠は、法真寺の山号が「池田山」であることです。
元々は浄土真宗以外の宗派であったものが、備後光照寺の化導によって転派したと言われています。
福山時代
水野勝成公が福山の地を開拓して城下町を築いた際に、艮守護のために寺社を集めた内の一つとして吉津に移ったと伝えられています。
地理的には、福山城の防衛ラインである吉津川の対岸に位置し、また御手洗川を挟んで山陽道に面し、有事の際には要塞として使えるよう意図されていたようです。街道はここで折れて北に向かい、大垰(おおたを)と呼ばれる峠になります。
明治時代には、山号から取って住職は生駄(いけだ)を名乗りました。池田でなく生駄としたのは、当時周辺に池田姓が多くあり、混同を避けるためと伝わっています。この字を選んだ理由は不明ですが、「駄」には荷物の意味があり、「人の一生は 重き荷を負うて 遠き道を往くが如し」という徳川家康の言葉が連想されます。煩悩を背負って生きていることの自覚と、弥陀の慈悲の中にあることを忘れないよう戒めた名前なのかもしれません。
第二次世界大戦以降
福山大空襲で寺基は全焼しましたが、本尊と過去帳の一部は福山市神辺町中条の勝願寺(当時の住職密蔵法師の生所)に疎開していて難を逃れました。住職は出征し、坊守(住職の妻)が留守を預かっていたようです。その後、福山市引野町の民家を移築して本堂としました。
区画整理で境内地は大幅に小さくなり、吉津川とも距離を置き、西向きだった入り口は南向きになりました。当時の様子を知る人は、山門の脇に立派な鐘楼門があったと懐かしげに話してくれます。昭和53年には庫裡(住居)を、平成10年には本堂を改築して現在に至ります。
元禄検地文書
検地役人に提出した書類の下書きと見られる文書が、茶葉の袋に無造作に丸めて入れてあるのが発見されました。名前が無くては不便なので、これを元禄検地文書と名付けます。
内容
-
福山城下真宗池田山法真寺
本寺は西本願寺末流師匠者
当国沼隈郡山南村光照寺也 -
法真寺儀は先年沼隈郡山手村に
能有候、然所に元和六甲年先守護
水野古日向守殿御代に遂口頭
於吉津村之内に少分之河原を
申請寺引越申、建立仕候、 -
寺開基祖者行西先師之開闢
にて二百三十年に能成候、 -
委細由緒証文
無之候て
此分計書状申候、外に断り書上ケ申候、
松平伊予守殿御家来
御検知御役人中
右之通相違無御座候、以上、
法真寺(印)
元禄十二年 卯 十一月二十七日
(以下不明)
現代語訳
- 福山城下浄土真宗池田山法真寺、本寺は本願寺派で、師匠寺は福山市沼隈町山南光照寺です。
- 法真寺は以前、福山市山手町にありましたが、1620年水野勝成公の時に、口頭で福山市吉津町内に少しの河原を申請し、寺を引越し建立しました。
- 寺の開基は行西先師で、230年になります。
委細由緒の証文はありませんので、これを提出します。他に断り書きがあります。
松平伊予守殿の御家来、御検地役人様
右の通り相違ございません。以上。
法真寺(印)
1700年1月16日
(以下不明)
参考
開基の年とされる1470年は、応仁の乱勃発の3年後で、蓮如上人の二番目の妻である蓮祐公がこの前年に蓮如上人の17番目の子である祐心公を産み、この年に亡くなっています。
移転申請の年とされる1620年は、水野勝成公が10万石を与えられ福山藩が成立した翌年で、吉津川を芦田川の本流にして防衛の要とするための工事が大水害により中止された年、福山城下が完成を見る1622年の2年前に当たります。
この文書の書かれた1700年は、将軍徳川綱吉の治世で、元禄の大飢饉の5年後、松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった年の2年前です。