仏説阿弥陀経

浄土三部経の一つで、「小経」とも言う。後秦の鳩摩羅什訳。

顕に自力念仏往生、穏に他力念仏往生を説く。(→差別門)

通常の経典の形式と違い、弟子からの質問がなく釈尊が自発的に説かれたものであることから、「無問自説の経」と言われる。

阿弥陀仏の仏身、極楽浄土の仏土、眷属の荘厳を説き顕し、諸仏の証明を説いて執持名号を勧める。

詳細

宗祖は「教行信証」「化身土巻」において、「一心不乱」の「一心」を「執持」と合わせ、天親菩薩の宣布された「一心」であると示された。一心は、その場限りの集中ではなく、何があっても移り変わることのない不変の心である。これは自分の意志で作り上げることのできるものではなく、真実に出遇うこと、つまり他力によってしか生まれない。また、経に「難信」とある。自力によって生まれる信ではないから難信なのである。よって経の真意は他力念仏往生となる。

考察

諸仏の証明は、四十八願のうち第十七願が成就されていることを説かれたものである。

諸仏の中に西方の無量寿仏と言う名があるが、これが阿弥陀仏のことなのかどうかについては定説が無い。しかし、阿弥陀経の異訳である「称讃浄土教」には、「無量寿仏」「無量相仏」にかわって「無量寿如来」「無量蘊如来」「無量光如来」の三つの仏名が連ねられてある。また、梵文原典には「アミターユス(無量寿仏)」「アミタースカンダ(無量蘊仏)」とあって、無量光仏如来の名は無い。

阿弥陀経無量寿仏 無量相仏
称讃浄土教無量寿如来 無量蘊如来 無量光如来
原典アミターユス(無量寿仏) アミタースカンダ(無量蘊如来)

「無量寿如来」「無量光如来」は阿弥陀仏の別名であるから、この二つを二つとも顕して別仏であるとしたとは考えにくい。原典では「阿弥陀仏」「無量寿仏」どちらも「アミターユス」となっており、聞くものは同一のものとして聞いただろう。だが、阿弥陀仏の名に挟まれて「無量蘊如来」という聞きなれない仏名が書かれている。「蘊(skandha)」は体のことであるから、多くの体を持つ仏という意味であろうか。鳩摩羅什はこれを「無量相仏」と訳したと推測される。「相」は姿のことである。

ここで思い浮かぶのは、釈尊が普等三昧に入って大経を説かれたことである。普等三昧は三世(過去現在未来)の一切の諸仏を等しく観仏し、互いに通じ合い(仏仏相念)一体となる禅定である。阿難尊者は釈尊のこの姿を見て大変に驚いている。

諸仏が一体となって説かれた経が大経であるとするならば、浄土往生の功徳を諸仏が称賛されるのも当然である。第十七願に誓われた通り、阿弥陀如来の功徳は諸仏称揚の功徳であり、それは三世にわたる諸仏すべての力が阿弥陀仏の力となることを意味する。阿弥陀仏と諸仏を区別する必要は無いのかもしれない。阿弥陀如来の功徳をこそ、無量相、無量蘊と称えることもできるだろう。

「三世の諸仏」には、もしかしたら私たちの先祖や子孫、私自身も含まれるのかもしれない。未来の私からのメッセージ、別れた家族からのメッセージ、それが経を通して私のもとに至り届くなら、その力の根源は阿弥陀如来に他ならない。

生駄 真

2012/10/26 掲載